トマスに始まった東方キリスト教
16世紀に、「カトリック」から「プロテスタント」が分離。
カトリックになる前は、「東方キリスト教」。
最初は(1世紀〜2世紀)は「原始キリスト教」。
私たちが知っているのはプロテスタント教会。
ユダヤ人がなぜヨーロッパのキリスト教に親しめなかったのか?東方キリスト教を学ぶと、それが分かります。
ヒエロニムス(聖書学者AD 347−420)の記録によると、12使徒のひとりであるバルトロマイという人が、インドに伝道に行った後、復路でアルメニアに訪れました。
バルトロマイは、アルメニア滞在中にアルバのポリスという都市)で、皮剥ぎの刑にあい、殉教しました。
トマスもイエスの昇天の2年後に、東に赴きアッシリアのあたりで伝道しました。
アッシリア教会(シリア教会)は、後に中国で景教と呼ばれるようになります。
アッシリア東方教会に、初代の大司教(patriarch)は誰ですかと聞くと、トマスだと答えます。
アッシリアは世界で最初のキリスト教国になりました。彼らは自分たちをトマス・クリスチャンだと言います。
トマスは、その後インドに船で行き、漁師から王様まで色んな階級の人に伝道しました
インドに7つの教会を建てて多くの人に洗礼を授けました。
インドには今も聖トマス教会というのがあります。
トマスは、インドで現地の指導者(司祭)を2人任命した後、マドラスに移動しました。
その後トマスは中国に行きました。北京にいた記録があります。
そして再びインドに戻り、AD68−75頃に殉教します。バラモン教徒に殺害されました。
メラポリというところにトマスの墓があります。(サントメ聖堂)
マルコポーロの日記にも、トマスの墓のことが書かれています。
日本人には、西洋のキリスト教よりも、東方のキリスト教を知る必要があります。ローマ化される前に伝わった東方のキリスト教のほうが、原型に近い姿を残しています。
イエスには12使徒以外にも70人の弟子がいたと言われていますその中のタダイという人(12使徒にもいますが、別のタダイ)も、アッシリアに行き、エデッサ(今はウルファ)という町や、カスピ海沿いのカルテアにも伝道に行きました。そしてエデッサは、アッシリア東方教会の中心地でした。(AD95頃)
失われた10部族もこの辺にまだ大勢住んでいたと思われ、トマスの伝道を受けたでしょう。
ペンテコステの時は、アッシリアからも大勢の人が見に来ていたので、後に伝道者が来た時には、キリストのことが知られており、すぐに受け入れられたと思います。
原始キリスト教は、2世紀にはメディア人やペルシャ人やタタール人に広まっています。
BC6世紀に遡ります。
ペルシャのキュロス大王がバビロンを滅ぼした時(BC539)、 50年前から捕囚されていたユダヤ人を解放しました。
エルサレムに帰って行ったユダヤ人もいますが、帰らなかったユダヤ人もたくさんいました。
イスラエルに帰らなかったユダヤ人を東ユダヤ人と言います。
エステルとか。
預言者ダニエルもペルシャの宮廷に仕えていた東ユダヤ人です。
1世紀にこの地に来たトマスやバルトロマイは、この東ユダヤ人たちにまず福音を伝えたでしょう。
BC 2,400年頃、中国とアッシリアはシルクロードを通ってすでに交易していました。
アッシリア人は大月氏と呼ばれました。
BC 139 年に中国が大月氏(アッシリア)にメッセンジャー(使節団)を派遣した時の記録があります。交易とともに、シルクロードを通って福音も伝わっていったことでしょう。
BC 100年には中国はバルハシ湖周辺の国々(現在のカザフスタン)に軍隊を送り、征服しました。
大月氏にも攻め入った記録があります。
AD 166年 にはローマのマルクス・アウレリウスの使節団が海を渡って中国に入り、貿易を行っていた記録があります。
日本にキリスト教が最初に伝わったのは1500年代に来たフランシスコ・ザビエルによってだと、私たちは教わりました。が、実は1世紀頃にはすでに物も人も随分と行き来していました。中国には紀元前の時代からユダヤ人のコミュニティーがありました。
なぜトマスがインドや中国にいったかというと、そこにユダヤ人のコミュニティーがあることがすでに知られていたからです。
ユダヤの商人たちは、紀元前からローマと絹の取引をしていました。だからシルクロードと呼ばれるようになったんです。
ローマ人は絹の衣が好きで、中国から絹を仕入れていました。その絹を運ぶ仕事をユダヤ人がやっていました。なぜ彼らが運搬役をやるようになったか、そこには理由があります。
シルクロード横断するには何年もかかります。無神論者や多神教信者には、こんな危険な仕事をする気に離れません。自分の土地では安全でも、見知らぬ土地で神が守ってくれるかわからない。一神教の信者が、どこに行っても自分の神が守ってくれるという信念を持っていたユダヤ人は、何年も家族に会えなくても故郷に戻れなくても、寂しさや恐怖心を乗り越えて旅を続ける事ができました。なのでシルクを扱うのはユダヤ人が多く、のちに景教徒の多くの人がその仕事をするようになります。
中国にトマスがやって来たのはAD 62 年です。実はトマスが来る前から中国に福音が伝えられていた記録があります。後漢の王様光武帝の時代に、チベットが中国に侵略しました。その時にチベットの軍隊を中国が撃破し、チベット兵を捕虜いした時に、捕虜から聞いた話が、道教の僧侶によって記録されています。チベットから19万7000里西に行った国の話で、マリアという処女の女性から天の印により馬小屋で生まれた赤ちゃんの話です。
トマスがくる20年くらい前には、もうこの話が中国に入っていました。2世紀くらいには、日本にも福音が語られていた記録があります。
5世紀
アッシリア東方キリスト教会、コンスタンチノープルにネストリウスという大司教がいました。彼は各地域のキリスト教会とコンタクトを取っていましたが、西側のキリスト教会(=ローマ)が気にかかりました。
なぜなら西側が、マリアを「神の母」と呼び始めていたからです。キリストの母と呼ぶのは良いが、神の母ではない。神に母はいない。これは女神信仰に繋がると危惧しました。のちのプロテスタントも同じ考えです。マルティン・ルターやカルビンがやった事を、ネストリウスはやっていたのです。
ネストリウス派は異端だと、どこかの神学校で今でも教えていますが、異端だと言い出したのはカトリックなんです。カトリックが書いたものを鵜呑みにするとこうなります。ルターもカルビンもローマから異端視されました。ネストリウスは三位一体を信じていますした。
東方のクリスチャンの人口は、西側のクリスチャンより遥かに多くなっていきました。が、
AD800年代に暴が現れて弾圧され、変形してゆきます・・・
古代日本に渡来した秦氏は、中国の記録「資治通鑑」によるとバルハシ湖周辺に住んでいたらしく、中国の書物ではこの場所を弓月とい記しています。彼らは遊牧民だったので、もっと西から来て、弓月にしばらく定住した可能性もある言われています。彼らは背が高く、衣服を清潔にしていた、中国人と違う言語を話し、違う風習をもっており、馬に乗っていたと、3世紀の歴史書「三国志」に記されています。そして高い文化を持っていたと書かれています。
弓月の国も中国の属国になっていました。真の始皇帝の時代になり、万里の長城を築くために、征服した国の人間を労働力にしており、その労働が過酷だった為に朝鮮半島に移動しましたが、そこでもまだ苦役の生活でした。そこで日本の天皇にお願いしました。日本の店頭,は、秦氏の持つ高い文化に魅力を感じ、約2万人の移住を受け入れました。
彼らはヤマトゥー人と呼ばれていました。
昔のユダヤ人は、キリスト教と深く関わっていました。
しかし、西側のキリスト教はローマかしてゆき、東のキリスト教を異端視するようになり、差別するようになります。
キリスト教の東西分裂の原因は、理念の違いが発端であったにしても、人種的なものになり、政治的に利用されていったのでしょう。
分裂後は、ローマ・カトリックは反ユダヤになていきます。ユダヤ教のものをどんどんなくし、アーリア人の白人の宗教となっていきます。東方キリスト教の方は、どんどんアジアのキリスト教になっていきます。
ローマ・カトリックは中世になると暗黒時代に入っていきます。同時代に東では景教徒が活躍をしていました。あるキリスト教伝道師は、景教徒の伝道活動が世界で最も偉大な伝道活動であったと、本に記しています。16世紀のイエズス会の活動も偉大ではありましたが、ちょっと違いがあります。それは、ザビエルは母国ポルトガルの経済援助を受け、ローマ教皇の後押しもありました。景教徒たちは、自分たちが住んだ地域の人になって、自力で伝道しました。その違いは後に決定的なものとして出て来ます。ザビエルの背後には国があり軍事力があったので、スペインが日本を侵略するために宣教師をまず送り込んで来たのではないかと、日本の幕府は不信感を持ったためにキリスト教を迫害しました。しかし景教徒は背後に何もなく、ただ家族で伝道をしていました。
景教徒たちはアラム語を使っていました。アラム語は中東の広い範囲で使われており、アッシリアのエデッサで使われていたシリア語(アラム語のひとつ)です。
16世紀にイエズス会の宣教師が中国に秘蔵されていた石碑「大秦景教流行中国碑」を発見しました。中国に来た景教徒の僧侶が書いた石碑で、のちの迫害受難の時に地下にか隠されていたものです。
景教徒のものであることがイエズス会で検証され、世界中でニュースになりました。この石碑は漢文で書かれていますが、僧侶の名前などは、シリア語で書かれています。
これは、世界のクリスチャンの間では有名なことですが、日本人のクリスチャンには知られていません。
景教徒たちは、アジアの各国後をマスターし、研究していました。彼らの言語研究の熱心さはものすごいものがあります。ウイグル人は文字をもっていなかったのですが、ウイグル人用に文字を作ってあげたのは景教徒です。それくらい聖書を学んでもらいたかったんです。モンゴル人がウイグルを滅ぼしますが、モンゴル人も文字をもっておらず、ウイグルの文字を使うようになりました。
旧約聖書はヘブライ語とアラム語で書かれています。ユダヤ人はバビロン捕囚でアラム語になり、イエスもアラム語をしゃべっていました。アラム語にも色々あります。ユダヤアラム語、サマリアアラム語など。ユダヤ教の聖典であるタルムード(5世紀)は、バビロニアアラム語で書かれています。シリア語もアラム語の方言。
日本語になったアラム語もあります。日本書紀にはスクネという言葉がよくでます。
「太秦の君スクネ」スクネは=the braveの意味。歌人や文人の称号で 「麻呂」(マロ=lordというシリア/アラム語から)です。「麻呂」は後に「丸」に変化し、牛若丸などの「丸」になっていきます。日本のカタカナは、アラム語とヘブライ語をもとにつくられたようです。
Source: YouTube 聖書講義
「代方法キリスト教と日本」1&3
久保 有政(1955年7月13日 )
日本のプロテスタント系の聖書解説家、
単立・池袋キリスト教会初代牧師。
レムナント出版、レムナント・ミニストリー代表。
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