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愛の日記 byマドモアゼル愛 2017

言語を超える音 空海の母音トーニング 


どの国の子供も、赤ちゃんの時代には国の言語をしゃべる前に、共通の発声をします。それが母音です。母音は赤ちゃん共通の言語であると同時に、自然界の音とも共通しているのです。風の音、波の音、動物の鳴き声、虫の声、、、自然と自然界に生息する言語が母音であり、赤ちゃんもランゲージを話す以前は、どの国の子でも共通して母音言語を話しているわけです。

私たち人間はそれぞれの言語をしゃべる前は、母音を語り、自然界や動物たちと、会話することができたということもできるでしょう。まだ脳がやわらかくて、柔軟性に富んでいる時代に、もっとも誤解なく吸収しなければならない情報は何だったのでしょうか。それは、命の情報以外にありません。人間にとってもっとも重要なイノチの情報を私たちは母音言語を通して、人生の最初に学ぶのです。

ということは、時代が押し迫り、終末の様相を呈したような時代になって、再び、命の共通性の元によみがえることができるかどうかのカギは、母音にしまわれていることになります。英語でも、日本語でも、中国語でも、イスラム諸国の言語でも、イノチの共通性を学ぶには弱いのです。それはロゴスであり、結局は分裂を生みだす要素にほかならないからです。植物と話し、動物と話し、自然とも宇宙人とも話せる言語、、、それは母音の言葉です。

私は6年ほど前に一人の婦人と知り合い、衝撃的な情報を得たことがあります。その婦人は毎晩(早朝が多いということでしたが)眠ると夢の中に弘法大師が現れて、その婦人に色々なことを教えるというのです。それは3年間毎日続いたといいます。そして最後の最後に弘法大師が教えたものが、すべての知識を集大成させるものとして、特殊な発声、私に言わせれば母音トーニングを教えたのです。弘法大師のお気持ちがどういうものか、私にはわかりませんが、最後のカギが母音発声にあるとの思いは、まったく同じです。母音、私たちはここから始まったのですから、またここに戻るのです。

始まりを忘れていくら途中を築いても、結局はエネルギー不足に陥り、どの文明もダメになります。唯一、形に残らない母音の発声につながったものでなければ、エネルギーを維持することなどできません。おそらく、世の中の信頼できる宗教の奥義はほとんどが何等かの母音発声に関係した音の世界なのではないでしょうか。これ以上に根源的なものはないからです。宇宙もすべて母音からできていると思います。今なを母音の発声が流れているから、私たちの宇宙も地球も私たちも、形を整えられているのです。

このイノチの母音から出発したのにも関わらず、言語を覚えることによって、母音と言語の立ち位置は逆転し、私たちは短い有限の世界に閉じ込められてしまったのです。ランゲージを覚え、ボキャブラリ―を覚えれば覚えるほど母音発声から遠のき、イノチの音を失っていく私たち。いつしか母音でしか表現できなかった重要なものを忘れ、形だけを作り、流暢な言語をしゃべり出すようになっていく私たち。そしてイノチから離れ、自身を限りなく物質にさせていく私たち。

この流れを再びイノチに戻すためには、母音発声が必要になるのですが、その母音ですら体裁の世界の垢に汚れてしまっています。なので、イノチの還元の際に最初に出てくる母音は、決して流暢なものでも、美しいものでもなく、どちらかと言えば、うめきであり、叫びであり、絞り出す発声であります。夫人に現れた弘法大師のお教えとは異なるものかもしれませんが、婦人のお声は絞り出すように、苦しい者のように見えて、実は解放されていく道を示していたように思えました。ぜひあなたも母音でしか出せないものを出し、自由な境地を体験なさってみてください。


 

ゼロが無限 


フリーエネルギーの根本原理は、ゼロにしか無限はなく、あらゆるエネルギーはそこから訪れる。しかしどこかにあったものがなくなった場合を、私達はゼロと思いやすく、そうしたゼロしか考えようとしません。

10万円を使ってしまって、貯金がゼロになったら、ゼロ円というゼロです。

火事で家が焼ければ、家がゼロになります。地球資源が使い過ぎてなくなれば、やがて、石油も資源もゼロになると試算したりします。ゼロが実は無限と同居していることが事実だとしたら、物資的なゼロにばかり意識を向けることは、不自由そのものになりはしないでしょうか。物はすべて結果物であって、何の力も有していないのです。

電車にのってどこかに行った場合、物質の考えでは、電車で行けた、、、となりますが、ゼロの視点では、行こうと思ったから行けた、ということになります。

すべてはまず先に意思と、その前に存在する意識によって行動が生まれますので、質量のないゼロにしか、本当は私達を動かす力は存在しません。

ただ、電車に乗って行った、、、と物理的に考えた方が分かりやすいのでそちらの物理的な側面をつい重視してしまうのです。

しかし、電車で来ようが、歩いて来ようが、飛行機で来ようが、それが大した問題になることは実際には少ないのです。そんなことより、おばあちゃん、、、会いたくて来たよ、、、という思いが人生や生き方や今後の人生に大きな影響を与えることは明白です。

しかし、そんなゼロを忘れ、電車で来たとか、飛行機が良いとか、どの会社はどうだとか、人は外面上のことばかり、あきもせずに話し続けます。ゼロがそんなに怖いのでしょうか。いつしか私達は、肉体という質量のある存在を、自分だと勘違いするまでに至ってしまったわけです。

ゼロがすべてを作っているのに、ゼロ以外からは喜びは訪れないというのに。

会社に飼いならされた男性の心の固さが問題になることがありますが、それはゼロよりも、会社組織やどこの大学を卒業したとかいう、外見の物質的なものにとらわれ、ゼロを失ったつまらぬ表現のためです。企業も政治も、このゼロから遠ざかるほど、儲からなくなりますが、それは人の心を打たなくなるからです。

本来なら、物質的ゼロに陥った際にも通用する教育や哲学が必要なのですが、それが残念なことにありません。人の魂を救済する宗教でさえ、現世利益に傾き、あの神様を信じると金が入る、この神様を信じると権力が入る、です。

物質的ゼロが無限のゼロと同居することを理解すれば、逆境や不幸と思える事柄が、本当のプレゼントであることを私達は理解します。本来の宗教や教えもそれがメインに来なくてはならないと思うのですが、要するに落ちぶれてしまったのです。

なので、不幸とは、すでにある物質的な視点で物事をとらえ、考え、それ以外に道はないと思う意識に他なりません。

幸福とは、ゼロを受け入れ、物質的なゼロが大きな世界であることを受け入れた、本当の安心感を言うのです。身体が全て、、、果たして本当でしょうか。その体を生み出しているものは、本当に栄養や遺伝子なのでしょうか。本当はあなたの意識ではないでしょうか。

自分は無の存在なのか、肉体の存在なのか、、、肉体を持つ以上は後者であることも事実ですが、それを維持運営しているものは、やはり無の意識なのです。

金が欲しい、、、地位が欲しい、、、私もそう思います。ですが、だからと言って金を得るために貯金したり、何年計画で貯金しても、本当に貯まるでしょうか。

私達を取り巻く物質的なものには、本当は実態がないのではないでしょうか。それらは、かつての、それを作り出す意識が作り出した抜け殻に過ぎないのです。意識が作り、意識がそれらを継続させているだけです。

会社も先代の社長の考えが残されているうちはうまく行くかもしれませんが、金儲けだけに走ったら、ゼロを失い、つぶれるに決まっているのです。しかし、勉強だけができる二代目、三代目は、そのことが分からず、合理的と言って、物質意識一辺倒となり、あえなくその姿を消していくのです。

ゼロ、、、それは身近であり、いつでもどこでも、あなたに寄り添い、どんな状況や運命からも、あなたを永遠に守り通してくれているのです。ただ、そのことに私達が気づかないだけ。


 

炭素化と珪素(silicon)化


栄養がある物が体に良いと思っているケースがよくあります。確かに栄養素の高い物を食べてれば、その時々では元気になるでしょう。しかし、新鮮な野菜を食べた時にも、意外と元気になるもので、どちらが元気かは人によって、また状況によります。

ここからは、私個人の考えの話しとなりますが、何を食べても、物には、何の力も栄養もない思っています。ただし、これは科学的な話しではないことをお断りしておきます。本当は真の科学的だと思うのですが、まだ認められていないので、あえて私の話しとしてお聞きください。

物にも食べ物にも何の力もありません。では、まったく食べ物に意味がないのか、、、というと、それは違うのです。何を食べるかは重要です。それは、本当のエネルギーをもたらす条件として存在しているからです。

私は二つの懐中電灯の光を同時に一カ所に照射するだけで、すごいエネルギーが得られることを知っています。それにより、やけどの跡や傷の跡をきれいにしたり、痛みを和らげたり、こむら返りを一晩で良くしたり、、という報告を色々な方から得ています。横になって動かなくなった金魚に両方から光を浴びせたら金魚が元気になった、、、その動画を送ってくださった方もいます。

では、懐中電灯の光にそうした不思議な力があったのでしょうか。そうではありません。あくまで懐中電灯の光はエネルギーを呼び込む条件に必要だっただけで、光自体に意味があるわけではないのです。

食べ物も同じです。食べ物に力はなくても、エネルギーを呼び込む条件にふさわしい食べ物や食べ方があるのです。がつがつと食べれば、体からは活性酸素が大量に出てきます。犬のような食べ方では、人は長生きできません。活性酸素という副作用によって人は体を壊し、死ぬことになります。

副作用のない形でエネルギーを取り込むことが、健康にも長寿にも、必要なことなのです。ただし、何度も言いますが、これは私の考えです。今の科学の話しではありません。

食べれば、喉も口も動きます。動けば、それを止めようとする、元に戻そうとする反作用からエネルギーはやってきますので、食べれば、口、喉、食道、胃、腸が動くため、エネルギーを確かに取り込めます。

ただし、何を口にするかで、副作用は違ってきます。栄養価の高い食べ物には、概して副作用が出るものが多いのです。それは、石油を燃やせば暖かくなるけど、たくさんの汚れた煙が出てくるのに似ています。どんなに暖かくなっても、人はその煙の方でやられてしまうのです。

食べ物も同じで、栄養価の低い食べ物の方が、エネルギーを呼び込む条件として使える物が多いのです

灰から肉まで、栄養価の順番を考えてみると面白いと思います。

灰なんか食べられないかもしれませんが、確かに栄養はありませんし、悪い灰でなければ、たくさんとらなければ、害になる要素も少ない物だと思います。

では、灰をたべていれば、健康で長生きできるのでしょうか、、、そんなこともありません。ただ、ほんの少しの灰が、もしかしたら、意外な働きをしてくれる可能性はあるかもしれません。

エネルギーを呼び込む条件づくりにもしかしたら、有用な物質かもしれないのです。

実際に私は灰を食べたこともありませんが、おそらく、少量なら素晴らしい働きをしてくれる可能性は感じます。

栄養価がゼロだからです。ここにすべてのヒントがあるのです。

この世はすべて逆になっています。物に力があると思って、人は物を欲しがるのです。しかし、本当は逆で、無からしかすべては生じないとしたら、すべての考えの構造が逆転します。

より多く、より早く、より大きく、よりすごい、、、という価値が逆だとしたら人生観も生き方もやり方もすべてが逆転します。物には何の力もなく、無からしかエネルギーはやってこない。私はそう思っているわけですが、ならば栄養学も物理学も逆転します。物の副作用で人はやられると思います。

ですので、物のことばかり、金のことばかり、体のことばかり考えている人は、確実にエネルギー不足に陥いるのです。

物だと思えば、物としての運命が襲ってきます。物のことばかり、体のことばかり、金のことばかり、出世のことばかり、、、、見える物がすべてだと思うことで、私たちは実は大損しているのです。

無からしかエネルギーは訪れません。赤ちゃんはエネルギーの塊です。何も恣意せず、現実をありのままに受け入れるだけ。心は常にフラット。過ぎ去る無を体験しているだけですから、あれだけエネルギーに満ちていられるのです。

さて、栄養に話しを戻しますと、栄養の低い物が安全なのです。煙のような副作用が出ないからです。そして無機質に近い分、多少純粋にエネルギーを呼び込む条件付けになりやすくなります。

栄養がある物が主力を占めると、体はどうしても炭素化に進みがちです。より物質的になります。炭素化が進むと、活性酸素にやられます。

病人は本当は何も食べない方がいい、、という学説がありますが、その通りかもしれません。下手に栄養など取ろうとして無理すると、まず副作用にやられ、その上、炭素化がすすみ、そして活性酸素でやられる。

逆に栄養価の低い食べ物が主力だと、副作用が少なくなります。野菜がいいとばかりたくさん食べれば、体を冷やして良くありません。何でもやり過ぎはダメで、やり過ぎは物量作戦であり、自分を良くしようとことさら思うことで、自分が物質、肉体である心理を大きくしてしまいます

物よりも心や意識が優先しますから、ことさら良いことをしようとすることで、自身の物信仰を強めてしまうのです。そうなれば副作用でやられます。ことさらの健康志向はかえって有害なのです

自分が物なら物としての運命を招きます。副作用にやられやられやすくなり、炭素化の結果、活性酸素にやられます。

炭素化の逆が、ケイ素化です

灰やケイ素や土や炭素もそうかもしれませんが(炭素化とは別に)、これらの物には、無から訪れる最小原子の電子を呼び込みやすい性質があると思います。

灰やケイ素も物質なのですが、うまく働くのです。無にしかエネルギーはありませんが、無の状態にまず電子が飛び込み物質化が起こります。この際、物理的に灰やケイ素や石膏などもそうだと思いますが、電子が飛び込みやすい状況を作れるのでしょう。

そこらへんのところはよくわかりませんが、ケイ素化した物には、たとえば、大きな箱と小さな箱、、どちらのプレゼントをもらうか、、、と似たようなクイズが隠されていると思います。

物質信仰の人は、大きな箱を選びますが、無への感性のイメージが強い人は小さな箱を選びます。そして、小さな箱の中には、ケイ素化された物がつまり、大きな箱には炭素化した物が詰まっているわけです。

カエルの王様の話しなど、童話にはこうしたヒントがたくさんあります。水晶人種の出現という話しがありますが、これも同様ではないかと思います。

話しが具体的からそれましたが、ともかく、栄養価の低い食べ物をバカにしないことです。こんにゃく、カブ、冬瓜、、、それ自体には確かに栄養はないかもしれませんが、体内の無の状況、思考の無とつながって、エネルギーを呼び込む条件を作ってくれることがあると思うのです。

炭素化に傾いた肉体では、食べた後は疲れますし、静かにしていても、体が重たいから無の意識ができにくいのです。一日程度、絶食などしてみると、体内イメージでのケイ素化が進みますので、体が軽くなったり、動きが樂になります。

重力から自由になることが、当面の目標と言ってもいいと思いますが、時間は重力につかまり、私たちは苦しむのです。老人になるほど、起きたり立つときに、よっこらしょ、、、と体は重力につかまっていきます。重力から自由になる食べ物という観点から本当の栄養を考えなくてはいけない時代に入ると思います。

 

内臓の拮抗


震えればそれを止めようとする宇宙の力を呼び込みます。それがフリーエネルギーですが、拮抗する状態でも、フリーエネルギーを呼び込めます。

拮抗状態は微振動そのものですから、原理としてはまったく同じです。どちらもふるべです。

私は体操などやったことはありませんが、体の筋肉、組織を拮抗させることで、エネルギーを取り入れられることがわかりました。

一般の体操や筋トレから得るエネルギーをはるかに超えたものが、筋肉や組織の拮抗から得られることを確信しています。

無理な体操や筋トレ、激しい動きは、不要であり、組織を拮抗させるだけの方が多くのエネルギーを取り込めるのです。

原理としては、無からしかエネルギーは入らないからです。拮抗は無に近い微振動です。拮抗から得られるエネルギーによって、本当は人は活かされていると言ってもいいくらいです。

上の写真は内臓の拮抗をイメージしたものです。お尻を月だし、下腹部を伸ばし、胸部を突きだします。すると内臓は引っ張られ、縮もうとする力と拮抗します。

内臓の拮抗からも非常に多くのエネルギーを得ることができます。

この際に、お尻を出す、、、胸を出す、、、という形で考えてはいけません。腹の内部の内臓をストレッチし、縮もうとする力と拮抗させるだけです。

人間の正しい姿勢が、本当はお尻が必然的に外に出て、下腹部とおなかが自然に出る、、そしてその結果として胸も張る、、、そうした形ではないかという気がします。

頭から脚まで一直線に立つと、これはこれでいいのかもしれませんが、エネルギー的には納得できません。

内臓拮抗の形で立つと、重力全体を腰に乗せ、その結果、自然と背は弓なりとなり、お尻が出る、、、この姿勢ですと、姿勢そのものからエネルギーを得ることが可能です。

ヨガの姿勢もそのほとんどが、おそらく拮抗させることでエネルギーを得る姿勢になっているのだと思います。

ただし、その形に意味があると思うと形を追うことになり、肉体に無理を生じさせます。形には意味はなく、形はあくまで結果にすぎません。

内臓を拮抗させる方法は色々あると思いますが、写真の姿勢は多少デフォルメしていますが、脚をもう少し普通に立つようにすれば、ただ立つだけでエネルギーが内臓に入ります。

写真の姿勢では、多少苦しいかもしれませんが、エネルギーワークとしては非常に優れた姿勢になっています。

足を屈伸させなくてもいいので、お尻を突きだし、腹部を思い切って自由に伸ばし、縮んでいる内臓状態を拮抗させると、気持ち良く、大変なエネルギーがもたらされます。

何度も言いますが、形を追うのではなく、内臓を拮抗させることが目的ですので、意識が形に囚われると、必ず副作用の世界に入っていきます。

筋肉の拮抗、各関節、各組織の拮抗、そして内臓の拮抗、、、これは寝たきりのご老人でもできるワークなのです。

最初はふるべから入り、次に色々な肉体部位を拮抗させ、内臓を拮抗させていく、、、、これをゆっくり、丁寧に、続けていけば、あっという間に驚く結果が得られる可能性が高いでしょう。

すべての問題はエネルギー不足から生じています。エネルギーを得ることで解決する以外に方法はありません。

それには、方法論ではなく、原理がわかっていればいいのです。原理を間違えることなく、具体的にそれを行えれば、誰でも、いつでも、どんな状態でも、そこから脱出できるはずです。

年末には神舞踏セミナーを開催しますが、こちらはすぐに定員になりましたので、また、来年に向けて、前述した内容のセミナーを開催させていただくつもりです。

元気になるのも、若返るのも、丈夫になるのも、自然の仕組みによるものでなければ、きっと副作用で私たちはやられてしまうでしょう。

宇宙は公平にエネルギー補給の方法を私たちに与えてくれているのです。

時局についても書きたいことはたくさんあるのですが、薄汚れた人間心の蓄積による総決算の時期が近付いているような気がします。

大きな動きが世界にあるはずですので、私たちも人間が作った何かにすがるのではなく、天意や天の力、自然と一体となる生き方を目指すのが良いと思えます。

私は振動がエネルギーを呼び込むという、これ以上簡単な法則はない、、、という観点に立ち、新しい健康法というか、本質的なエネルギー補給法について、チューナー、ふるべ、そして拮抗の原理に関わって行きたいと、改めて思う年の瀬となりました。

今年はもう残ったセミナーはすでに締め切っている神舞踏セミナーだけとなりましたが、あと何か、気楽な楽しい会合を一つ、考えたいと思っています。思いつきましたらお知らせいたしますので、どうかチェックしてみてください。

試練を経ずに新しい時代が到来するようにと、願わずにはいられません。フリーエネルギーしかないと思うのです。フリーエネルギーを使えるかどうかは、結局は人の意識であり、フリーエネルギーとは意識そのもの。

同じことをしても、それは形を追った結果としてなのか、エネルギーの流れの結果としてなのかで、雲泥の違いが出るのが、これからの時代なのです。

煎じ詰めれば、フリーエネルギーとは人の考え方、意識そのものです。

自分が生きているのか、生かされているのか、、フリーエネルギーの理解の分かれ道がそこにあります。

見晴台とは、身を張らす意味であると、何かで教わったことがありますが、(ひふみ)身を張らせば、内臓は拮抗しエネルギーが満ちます。

身を張らすには、お任せする意識が必要です。そうでない限り、私たちは奪い合いの世界から抜け出せません。

生かされている安心の元、身を張らす内臓拮抗となれば、喜びがヒシヒシと湧いてくることになるのです。

 

無から有が生じ、無は無限を包含する

私は人の成功物語を聞くのが好きです。そして成功者の話しに共通していることは、すべて同じ。例外はほとんどないと言ってもいいでしょう。

それは、その人が成功していくきっかけの、そのスタートは必ず、無であることです。

二代目社長で会社を大きくしたような場合でも、一代目からの引継ぎがうまくなく、むしろマイナス状態からのスタートになったり、周囲がまったくついてきてくれないなど、二代目の有利さよりも二代目のマイナスが目立ちます。

要するにマイナス、もしくは無、ゼロの状態を体験し、そこをスタートにして成功していくパターンが共通しているのです。

これはエネルギー的には実は当然のことで、ゼロにしかエネルギーの入り口がないからです。

人はすでにある物を欲しがり、すでにある物に力があると誤解します。しかし、すでにある物は何等かの結果としてそこに存在しているだけで、それ自体は過去の意識の産物としてそこにあるだけです。

そんなこと言ったって、大きな財産があればいくらだって使えるに決まっているじゃない、、、との反論が出ると思いますが、その大きな財産を作ったところの意識がそこに注がれなくなれば、財産などいくらあってもあっという間に失います。

すべてはエネルギーの結果として存在するからです。老後を生き抜くには6000万円必要だとか、いや3000万円でどうにかなとか、人は不安になって言いますが、まったく意味ないのです。

一円もなくても楽しい老後を過ごす人もいるでしょうし、何億円あっても貧しい老後に至る人もいる、というのが結論だと思います。

いくら持っていても、そこに注がれるエネルギーがなくなれば、物は必ず崩壊現象を開始します。

これだけ貯めたからこれで安心、、、と思ったら、もうそこにはこれまでのエネルギーが注がれなくなりますから、いくら貯めても、実は安心ということにはならないのです。

一定の意識状態を保たない限り、そこに現れた現実を長引かせることはできません。

これで安心、、、という意識は終わりの意識ですから、もっている物は、必ず崩壊化を始めます。

人は安心するために生まれて来たのではないのです。安心とは幻想にすぎませんん。

せめて用意しておく、、、程度に貯金などは考えたらいいと思います。そうすれば、きっと活かせるときがあることでしょう。そして確かに貯金によって助けられることがあると思います。

貯金があるから安心、、、はあまりに稚拙であり、自身を金や物と同等におく意識なので、必ず崩壊するのです。

安心を求めても安心な状態は訪れません。安心を求めるのは、安心でない状況を想定した自身の不安定さを助長するためです。

成功者の話しに戻しますが、成功者は行き詰まり、すべてを失い、無となった時点で、無の状態で意識を働かせたのです。

期待も恐れもない素直な無の状態の中で、そうだ、、、との思いからスタートしてものは、必ず成功するのです。

エネルギーは無からしか訪れないためです。すでにある物を羨んでいるうちは、自分も物質ということなのです。

人は人の持つものを羨むことはあっても、人の持つ意識を羨むことはありません。

表面的な人の成功を羨み、人の財産を羨み、人の美貌を羨みつつ、多くの人が自分の人生を送っています。

しかしそれがどんなにか危険であるかを、多くの人は気づかないのです。

人を羨めば、目に見える形だけが自分となり、目に見える形だけの人生を歩むことになります。

目に見えるものは、すでに結果物ですから、そこにはエネルギーはありません。私たちは人を羨むことで、自身の無の原点を忘れるのです。

そうなれば、必ず崩壊化が進みます。長生きしている人に、人のことばかり羨んでいる人はいません。

皆、自身の人生に、それなりに満足している人が長生きします。

それは無とその人がどこかでつながっているからで、物やステータスとつながることで長生きするわけではないのです。

昔、台風が青森県を襲い、収穫直前のりんごがすべて落ちてしまったことがありました。

どの農家もすべて収穫が全滅。それを見たりんご畑の老婆が言った言葉が忘れられません。

「どの家のもみんな落っこちだ、、恨みっこなしだ」と。

人生もまったく同じだと思うのです。誰でもこの世に生まれて、必ず死んでいきます。恨みっこなしなのです。

そして誰もが無となった際に、そこはエネルギーの入り口となっているのです。

お金を失ったとき、悲しみのどん底にいて将来がないと思われるとき、名声を失い悲嘆にくれる時、誰も愛してくれないで死ぬほどつらいと感じるとき、あきらめきって何もない自分に気づくとき、、、、無は様々です。

その無をあくまで物理的な無としてしかとらえなければ、自身も物理的な運命から逃れられず、崩壊現象が加速します。

自分が物だからです。物には物としての運命が襲い掛かります。物を持続存続させるエネルギーが無くなれば、それは崩壊していきます。

無からしかエネルギーは訪れないのですが、その無を物理的な無として捉えるだけか、物理的な無の中に無限を肯定できるか、、、そこに人生の分かれ道があります。

物理現象は正直ですから、物理的に無の状態をつくれば、必ずエネルギーが注がれます。なので、本当は金を失くすなどの物理的な無ですら、凄いチャンスなのですが、物に凝り固まった意識がそれを認めないので、物の運命と共に自分も終わってしまうのです。

物理的な無とは、このように病気であり、貧乏であり、失意であり、色々です。しかし、そこに息づく無限に人が気づくことで、人は生まれ変われるということなのです。

この世に誰も得する人などいないのです。この世に損する人もいないのです。

無がエネルギーの入り口です。持っているものは関係ないのです。

これは詭弁で言っているのではなく、光と光の無をつくればエネルギーが得られ、音と音の無をつくれば高度のエネルギーが入って喜びとなり、磁気と磁気のゼロ磁場をつくれば、そこにエネルギーが入ることを、散々確信した上で、無がエネルギーの入り口であると言っているのです。

昨日ご紹介したゼロポイント神舞踏も、体のあらゆる筋肉を拮抗させることで、体の各所にゼロポイントを作れば、そこにエネルギーが入る原理なのです。

それは同時に美しく、神々の踊りを連想させます。ヨガはその動きを固定化させたものなのかもしれませんね。ただ筋肉の力の拮抗点を超えたら、組織が痛むし、エネルギーも入らないのです。

拮抗させた無にエネルギーが入ることがわかれば、老人ですら若返る可能性が出てくるはずです。無を知らないから、人は恐れ、失意し、怒り、悲しむのです。

無の愛を知ることで、人は生まれ変わらなくてはならないのです。

 

無の証明

重力を持つものは、この地上において、反作用に伴う同等の重力によって安定しています。

人も立てば足裏で地面からの反作用によって安定し、立つことができます。足裏に限らず、あらゆる関節が重力を受け止めるので、関節は自身の重力と反作用の重力によって安定します。

無からしかエネルギーは訪れませんので、人は立つことによって、足裏や各関節からエネルギーを得ていることになります。

さらに歩く、走るなどの動作は複雑な重力の拮抗を体の色々な部位に作りますので、無からのエネルギーは大きなものになります。

人は歩くから疲れるのではなく、歩かないから疲れるわけです。

重力が拮抗する無からエネルギーが得られるように、どの場合でも物理的な無の状態を作れば、エネルギー補給ができます。

人は食べものからエネルギーを得ていると思っていますが、物にはエネルギーはありません。あらゆる物質は作られた結果ですから、無の原因の方にエネルギーがあるわけで、作られた物には力などないのです。

食べれば口は強い圧を加えて噛み、歯と歯は重力を拮抗させて無をつくり、エネルギーをもたらします。歯と歯をかみ合わせているだけでも多少のエネルギーは常に入っているはずなのです。

食べ物は食道を通り、ギャップを作りながら胃に至ります。食道を通るだけでもエネルギーがもたらされます。食道が動き、振動するためです。

胃はさらに動きが大きくなり、豊富なギャップを作ります。胃はエネルギー製造工場のようなものです。胃を動かすために食物を使っているのです。

食事をしなくても、おなかをじっくり震わせたり揺らしたりするだけで、エネルギーを取り込めます。関心がある方はぜひ試してみてください。

食物は次に腸に行き、長い長い腸の旅は次次に腸を震わせ、豊富なエネルギーをもたらします。おそらく腸が最大のエネルギー補給の場になっているのではないでしょうか。

腸を温めれば、温圧が上がりますから、取得するエネルギー量も増大します。おなかや腸は温めておく方が良いというのも、うなづけます。

このように、食物という物にエネルギーがあるのではなく、体が食物を得ることでギャップをつくり、無からエネルギーを得ていると私は考えるのです。

現代は物質信仰全盛ですが、物にしか力がないという考えは、いづれパロディだったと言われるようになるかもしれませんね。

人為的に無を作るには色々な方法があります。一例をあげれば、夏に使う扇風機、、、、扇風機を二台V字型に置き、中央付近で両方の扇風機の風が当たるように設置します。

その風には、豊かなエネルギーが含まれます。なぜかというと、風と風が減殺され、風同士の無をつくるからです。風と風がぶつかりあい、ギャップをつくり、ギャップがあればそれを元に戻すというのが宇宙の唯一の原理ですから、ぶつかり合った風は無となり、エネルギーを呼び込みます。

その結果、えも言われぬ幸福な感覚が訪れ、部屋自体が浄化された空間に早変わりします。

風と風をぶつけるだけでもエネルギーが得られるのです。水と水をぶつけても同じです。お風呂に入る前にお風呂をかけまわすことで湯がまろやかになるのは同じ原理です。エネルギー満ちた湯となるので、人体にやさしいのです。

温度は同じでもエネルギーを多く含んでいるので、やわらかく吸引化されたイノチに良いお湯に変わります。みなさんも、お風呂に入る際には、ぜひかけ回してください。お湯の鋭い痛みがかなりやわらぎます。

音でも実は同じことができます。お湯の表面に向けて、アーとかオーとか、できたら倍音を出してトーニングします。それだけで、かき回してエネルギーを得たのと同じか、それ以上の柔らかなお湯が誕生します。

物理現象が意識に近い方が高エネルギーをもたらしますので、お湯へのトーニングは、お湯をかけ回す重力無から得るエネルギーよりも高く、さーっと変わると思います。

コップの水や飲み物がまずくかんじたら、コップを手でおおい、口をつけて飲み物にトーニングすることでも、エネルギーに満ちてきますので、必ずおいしくなります。簡単にできるので、ぜひ試してみてください。

エネルギーはすべて命ですから、生きているものにやさしく、体にも良いものとなります。私はエネルギー化した塩酸に指を付けて、、と飯島先生に言われて、恐怖さながら煙が立つ塩酸の瓶に指を突っ込みましたが、痛くもかゆくもありませんでした。

塩酸で濡れた手に10円玉を付けると、色がさーっと変わり、塩酸はその性質を変えることなく、イノチあるものには無害化となったのです。塩酸にエネルギーを入れた結果でした。

この世は物からエネルギーを得てあらゆる物を動かしているかのように見えますが、実際はすべてフリーエネルギー原理で動いているのです。ただ、あたかも物の力で動いているかのように見えるだけです。物には力はなく、ただ、無の状態をつくる条件作りに必要なだけなのです。

次に水の流れについて考えましょう。大規模な水のぶつかりは海流です。黒潮と親潮がぶつかるところは豊かな魚の宝庫になります。海流がぶつかりあい、水温差が解消する際にエネルギーが満ちるためです。

私が注目したのは、光と光のぶつかりがもたらす際のエネルギーです。これは大変なものだと思います。物理現象が物質的なものから遠ざかるほど、エネルギーは大きくなります。

ですので、重力同士のもたらす無よりも、水のもたらす無、さらに風のもたらす無、そして光のもたらす無の方が潜在力が大きくなります。

UFOは光を出しながら飛ぶものが多いですが、おそらく光をぶつけ合って無の状態を作りエネルギーを得ているのだと思います。音と音の可能性もありますが。両方かもしれません。

私は光の干渉を原始的な方法である、懐中電灯と懐中電灯の光をぶつけあうことで、光が減殺された無をつくり、エネルギーを得ることに注目しました。

実験の結果、恐ろしいほどの事例に驚いたのです。主に皮膚の問題点で実験をしたのですが、絶対にありえない、古傷がよくなるような奇跡的なことが頻発しました。

エネルギー補給としてもかなりの成果があり、ふくらはぎに二つの懐中電灯を照射しながら5分ほど照らすと、寝ていて足がつれなくなるなど、驚きの現象が起きました。

ただし、こうしたことは現代科学ではまったく問題外に無視されると思われます。科学は物質絶対視ですから、物にエネルギーがあるという立場です。

私は物には何のエネルギーもない、という立場ですから、出発点がまったく正反対なのです。

なので、こうしたことは科学万能の時代にそぐわない、非科学的なあくまで個人的な感想としてお聞きくされば幸いです。

しかし好奇心からでもいいので、何かご自身でも実験したいと思われましたら、懐中電灯二つ、扇風機二つと、比較的簡単に手に入りますので、どうぞお試しください。

この世には、今の科学では判断できない事柄が、実はたくさんあることに気づかれるはずです。

UFOが光と光、音と音、磁気と磁気などををぶつけあうような形でゼロポイントを作り、無尽蔵のエネルギーを得ていることは間違いないはずです。

とくに物理現象がエントロピーから遠ざかるほどエネルギーが大きくなるので、私はとくに光にスポットをあてて、「半年ほど前に「光教則本」を発売しました。私のSHOPで販売していますが、これは未来の教科書でもあります。

教科書にしてくださる人はいないとは思いますが、今のところ、具体的にフリーエネルギーを利用した簡単な方法を網羅したものは少ないと思いますので、紐解いていただけたら嬉しいです。

人為的であれ偶然であれ、とにかく無の状態をつくれば、そこからエネルギーが得られるという内容です。とくに光でどうすればエネルギーを得られるのかを詳しく書きました。

内容は簡単で、飯島先生から教わったことがベースになっているのですが、具体編としてまとめたものはまだ少ないため、この教則本はいずれ時代が認めてくれるといいなと思っています。

こうしたことが拒否されるなら、人はガソリンや石炭やウランを燃やすという原始的なところにまだ留まることになります。

物がすべてと思うから、肉体も物として扱われ、私たちは苦労するのです。私たちも世界もフリーエネルギーの存在なのに、そのことに気づかないで苦労する私たち。

あらゆる問題はエネルギー不足がもたらします。なので、あらゆる問題の解決もエネルギーを得ることにほかなりません。

正しい食事も大切ですし、規則正しい生活も大切ですが、それらは、直接のものではなく、あくまで、無に至るきっかけになるから良いに過ぎないのです。

食事が良ければではなく、規則正しいからでもない、無を作る生き方、すなわちフリーエネルギーの存在となることが重要です。

大宇宙はなぜ動いているのでしょう。物に力があるからでしょうか。あんなに大きな物を動かす力が物にあるのでしょうか。無のエネルギー、フリーエネルギーでしか宇宙は動きません。

物がすべてとするその結果が、物が欲しい病であり、お金欲しい病であり、生老病死の世界です。無がすべてを生んでいることがわかれば、自身も肉体ではなく、質量ゼロの意識の存在が自分であると気づきます。

眼にチューナー振動を送れば、眼の周辺に空気や音のギャップができ、それを元に戻そうとする際にエネルギーが訪れます。

なので、眼にエネルギーが入ります。その実験も面白いので、チューナーをお持ちの方はぜひやってみてください。チューナーは振動する周辺にギャップをつくる装置のようなものですから、エネルギーを呼び込む装置であるといえるでしょう。

眼球にチューナーの音を聞かせる。すなわち目に音を照射するように片目5分ほど、両目で10分。朝夕つづけて1か月したら、眼は、視力はどうなっているでしょうか。チューナーをお持ちの方は、しまっておかずに、トライしてみてください。

本当は簡単なことだったのです。複雑に見せ、複雑に思わせ、事実は遠ざけられたのです。有ではなく、無からしかエネルギーは訪れないのです。

有に力があると思えば、価値ある有を人は欲しがり、人から奪ってでも欲しがり、トラブルや戦争すら起こしてしまうでしょう。

無にしか力がないとなれば、奪うものなどひとつとしてこの世にありません。無をつくる条件付けのために物はあるだけで、物自体に価値はないのです。

ふるべゆらゆら、、、それこそがギャップの存在とその解消によるエネルギー補給の古呪文であり、永遠の真実なのです。

 

フルベとクエーカー

キリスト教派のひとつに、クエーカーがあります。

日本ではあまり知られていませんが、これまでにキリスト教の名の元に、一人も殺したことがない教派としても知られます。

神はすべての人に表れる、、、との確信の元に、内なる光を求める神秘宗教でもあります。暴力は常に謝りであるとの確信を持ち、多くの良心的兵役拒否をしたことでも有名な一派です。

日本でもクエーカーの教えを元にした、普連土学園が港区にありますが、今では他のキリスト教との差異はあまり見られないかもしれません。

さて、このクエーカーのクエークは、揺れる、震えるから来ています。

創始者はジョージフォックスという人ですが、最初のころの信者は、祈る際に震えて入神の境地に至ったようです。

フリーエネルギー論では、振動しているものはエネルギーをもたらしますので、震えれば、振動していれば、必ずエネルギーを取り込んでいることになります。

日本の古神道の呪文として有名な「ふるべゆらゆらとふるべ」と唱えれば、死人も生き返った、、、と言われるあの言葉。

原始クエーカー教徒も祈りながら震えていたわけですが、ふるべゆらゆらと共通する点があると思います。

というのは、体を震わせるポイントがあり、それが祈りの姿勢にあるのです。

両手の力を拮抗させてお祈りの形にして左右に揺らせば、体全体を揺らすことができます。

横揺れと縦揺れ、、、すなわち十字架形ですが、その形で二種類の揺れ現象を作ることができます。

体を揺らせば、それだけで確実にエネルギーが取り込めますので、原理的にはどんな病気も治せるはずですし、若返りが可能なはずです。

はず、と言って断定しないのは、人によって異なるでしょうし、科学的な根拠なしの言動のため、判断を個々人にゆだねたいからです。

揺れる、、、振動する、、、ということは、ギャップを作ることです。揺れれば、筋肉や贅肉や血管、周辺の空気や音との間に複雑なギャップができます。

ギャップができれば、それを元に戻そうとする力が働きますので、それは反作用であり、反作用にエネルギーがあるという、私のフリーエネルギーの考えです。

ギャップは元にもどされ、常にゼロポイントを作り続けます。ギャップが続くあいだ、幾多のゼロポイントが贅肉や筋肉、骨、血液や血管、周辺の空気などとの間に形成され、ゼロポイントからエネルギーが入ります。

体を揺らせば、即エネルギーが入るわけです。ただし、無理な揺らし方や振動を与えると副作用が生じがちですから、筋肉や組織を痛めてしまう場合もあるでしょう。

その際、祈りの姿勢は無理のない振動の要となるのです。

昔、クエーカー教徒が真剣に祈るとき、体が揺れたと言います。祈る姿勢は体を揺らしやすくします。するとエネルギーが入りますので、法悦や無心、内的な光に出会ったのだと思われます。

現在のクエーカーではそうした体験的なものは昔よりは少なくなっていると思いますが、おそらく今でも続いていることでしょう。

一方、日本の古神道のふるべゆらゆら、、、の方は、すでに昔の話しとして片づけられ、今なを、ふるべゆらゆらが、真実であるとの考えはないと思われます。

ですが、クエーカーもふるべも私には同様の真理を物語っているように思われます。しかもそれは、今なを変わらない永遠の真実なのです。

 

感情は物質


昨日、三日間にわたった、ふるべ合宿を終えて東京に戻りました。ひとつのテーマにじっくり三日間取り組めた成果はとても大きいものがありました。

ご参加された方々に改めてお礼申し上げます。合宿の内容は、すべてのイノチが振動していることの実践と体感ですが、そのためには、自身の体の位置づけがとても重要になります。

身体が自分なのか、意識が自分なのかの、究極の認識です。

私達は、多くの場合、身体が自分だと思って生活していますが、そのことでむしろ体を酷使し、壊したり、弱ったりしていきます。

身体が自分ならば、動かない身体へのいらだちや、老いていく体へのあきらめや憎悪から抜け出すことは容易とはなりません。

しかし、反対に肉体ではなく、意識が自分であるとの認識に立てば、肉体はその従属物にあたる認識が生じます。

身体に私達は命じることも、それを従属物として、いたわり、大切にする姿勢が反対に出て来ることになるわけです。

お腹が空いた、、、、それは確かに脅威かもしれません。 身体が痛い、、、、それは確かに脅威でしょう。 身体が思うように動かない、、、、それは確かに困ったことです。

しかし、意識が自分で身体がその従属物であるとの認識に立てたら、次のように問題が変化します。

私はお腹を空かすことはないが、私の身体はお腹を空かしている、、、 私は痛くはないが、私の体が痛がっている、、、 私は自由に動けるが、私の体は今動けないでいる、、、、

という認識の出現です。こうした認識のもとでは、身体が自身の隷属物であるため、むしろ、いたわり、大切に扱うことが容易となります。

身体が自身であるとしたら、動かないからだ、、疲れる体、、、老いる体に抵抗するすべがなくなります。

身体はあくまで意識に隷属する別物との認識がこれから重要になってくると思います。時代がそこまで要請しているのを感じます。

この認識はそんなに難しいものではありません。なぜなら、意識が自分で肉体が隷属する別物であることは事実だからです。

事実に基づく認識は容易に自身の中に根付きます。

今回の合宿では、身体を震わすことを徹底して行い、エネルギーをふるべによって得ることを体得しました。

その際、ふるべの性質から、より微細なふるべ、すなわち振動が小さい方が、より大きく精密な情報をもたらすことを実感できたと思います。

その究極に、私は身体か、それとも意識か、、、があったわけです。

自身が肉体ではなく、意識であるとの地点に立たない限り、肉体や身体を扱えないことを実感できたはずで、より微細な振動は、まさに意識であることを実感されたと思います。

そのため、合宿を終えた皆さんは、全員体が軽くなり、まるで柔らかなマシュマロのような道を歩いているような感覚になったのです。全員です。10名が全員、そのような体に感を得ました。

それは方法論としての成果の面と、意識と肉体の違いをおぼろげながらでも認識できたからにほかなりません。

私は意識であり、苦しむのは肉体の自分で、私は苦しむことがないのです。

こうした意識に到達することは、一般に考えられているほど難しいものではありません。

合宿では、主に寝るスタイルでふるべ実践を行いましたが、寝ながら振動を与えると気持ち良くなり、終えたのちに立ち上がることに抵抗が出てきます。

しかし、身体が立つのではなく、意識が立つ、、、との考えによれば、簡単に立てるのです。

疲れるのは、私ではなく、私の肉体が疲れているだけなのです。

私の体さん、、、ごめんね、もう少し歩くのよ、、、がまんしてね、、、すぐにお水をあげるからね、、、、

このように、肉体を自身と思わず、自身の管理物でるとの態度でやさしく、いたわり、大切に扱うことで、容易に私達は奇跡的なことを起こせるのです。

合宿はふるべ理論の集大成として、私にとっても非常に意味のあるものとなりました。本当にありがとうございました。

その中で、陥りやすい間違いもわかってきました。感情の扱いです。感情と意識はもちろん異なります。感情を見ている意識は別にありますので、感情は肉体に近い反応です。

というよりも、感情は物質と思った方が分かりやすくなります。感情は物質なのです。食べ物に美味しいものがあったり、まずいものや苦いものがあって困るのと同様、感情にもまずいものや、苦しいものがあるわけです。

感情に従って選択していくと、必ず失敗するのは、おいしい食べ物を食べ過ぎると病気になるようなものです。

感情は物質ですから、それを扱う意識が伴わないと、問題が起きるわけです。

ただし、感情もどこに根差して現れたものであるかが重要で、一概にすべてが物質というわけでもありませんが、苦しい、つらい感情は間違いなく物質なのです。

高度の喜びは意識と同じ地点に立ちますので、主に苦しい感情は物質として扱えば、怖いものは基本的になくなります。

こうした基本的な事柄を、一度私達は整理して考えることが大切であると思います。

きょうからみなさんも、おなかがすいたら、ぜひ、私はお腹がすくことはないが、私の体はお腹が空いている、、、と考え、そのうえで食事されてみてはいかがでしょう。これを続けることで、色々な発見があると思います。

疲れた時も、つらい時も同じ、、、すべては共通した原理なんです。

 

汚れの理由

大体の物は、使ったり時間が立つうちに、段々と汚れたり精彩が亡くなってきます。

尾山台の私の店にいらしてくださったお客様によく行うサービスは、身につけていらしたネックレスや時計、腕輪などを陶器のお皿に乗せて、お客様と私が一緒にそれぞれがチューナーで皿の上にチューナー音を聴かせるのです。

最初の1分程度は変化はありませんが、2分、3分と立つうちに、ネックレスや腕輪、時計が、キラキラと輝いてきます。

10年以上も前に購入した精彩を失った時計が、長い月日を経て、再び輝きを取り戻してくる様子は美しく、皆さん非常に驚かれます。

磨くこともしないのに輝いてくる様は、まるで手品のように感じられますが、その理由はエネルギー不足が解消されるからなのです。

物が汚れるのは、手垢がついたり、油がついたからとか、埃のせいではなく、エネルギーが不足したからなのです。

私は以前、野生の犬を山奥で飼っていたことがあります。ノラだったので、お風呂には絶対に入りませんでしたが、かといって汚れることもありませんでした。

いつもピカピカの毛艶で、それは見事でした。しかし、齢が行って急速に衰え、死ぬ数か月前になると、徐々に毛艶が悪くなり、最後は汚れた印象がありました。

私の犬はお風呂に入らないから汚れたのではなく、エネルギーが不足して汚れたのです。

宝石も時計も貴金属も同様です。エネルギーが不足すると汚れ、エネルギーが満ちてくれば、光出します。

チューナーがあれば、それは簡単に実験することができます。皆さんがお持ちのパワーストーンや時計やチェーンなどを、皿の上に乗せ、そこに向かってチューナーを鳴らして音を聴かせてください。

最初の1分ほどは変化が分からないかもしれませんが、3分以上行えば、輝いてきます。再び手にとってみれば、おそらく感動されることでしょう。

エネルギーが満ちたものは、輝きを増して美しくなります。

この実験を私はお店にいらっしゃるお客様にもう何百回も行ったでしょうか。例外はありませんでした。そんなに変化しないな、、、と思うと、それは石ではなくてプラスティックだった、、、ということもよくありますが、それでさえ、やはりキラキラと美しく光ってきます。

光らせるために行うのではなく、お持ちの物にパワーを与え、エネルギーに満ちた状態にして差し上げる、、、そうしたものを持った方が、運気もきっとよくなるだろうと思えるからです。

誰が行っても結果が出せますので、どうかチューナーをお持ちの方は実験してみてください。あなたの宝飾品を永遠に輝かせることができるはずです。

なぜそのようなことが起こるのか、、、の原理はこれまでに何度も言っていますが、チューナーが振動し、音が出れば、それが作用となります。

何等かの作用が起きれば、それを止めて元に戻そうとする宇宙の反作用をもたらすことが可能になります。

そして、反作用にこそ、本当のエネルギーが存在するのです。

この世にある物には、何ひとつエネルギーを与えるものはありません。この世にある物を通して作用を起こす、、、それにより、宇宙は反作用を起こしてエネルギーを届けるのです。

例外はありません。チューナーを鳴らすのは、作用であり、必ず、反作用が生じて、音を元に戻そうといたします。

なので、結果的に、チューナーを鳴らせば、そこにエネルギーが訪れますので、あたかも、チューナー音に力があるかのように感じられてしまうのです。

しかし、人が行うあらゆる作用自体には、何の力もないのです。ただ、反作用を招くことによって宇宙は私たちにエネルギーを送るのです。

人が生きる意味もそこにあります。顔が全員違う、、、体つきも声も違う、、、考えが違う、、、個々の違いはすべてその人にしかできない作用を起こすために必須となります。

個の特異性がその人にしか作れない作用を起こせば、そのギャップを埋めようとして、反作用を起こし、その際にエネルギーが入りこむのです。

お皿に乗せた貴金属やパワーストーン、時計などに向けて、チューナーの音を照射すれば、反作用と共にエネルギーがその場に訪れます。エネルギーを得た石や時計は、ピカピカと光出すわけです。

先日、私は朝起きてから、左目から涙が出て、なかなか止まらずに困っていました。最近よくあることだったのですが、冬場の冷気と何と言っても年齢的なもので、涙目になっていたわけだと思います。

その時、ふっと、「そうか、目も水晶体だよね」と思い立ちました。そして、皿に置いた時計や石に向けてチューナー音を照射するのと同じように、涙目の自分の左目に向けてチューナーを聞かせたのです。

その結果に私自身、本当に驚きました。涙目は一発で止まり、さらに視力のぼやけが消え、まるで20代の頃の目の感触に戻ったのです。

眼球に向けて照射したチューナー音が宝石をピカピカにしたのと同じように、私の涙目を止めてくれた上に、視力のぼやけを修理してくれました。

そして感じたのですが、私は自分が肉体をもって生きていると思っているが、本当はそうではなく、エネルギーを反映しているだけではないかと感じたのです。

飼い犬だったノラは、お風呂に入らなくてもピカピカだった。私の目は、年齢が行って老人になったから悪くなったのではなく、エネルギーが不足して目がおかしくなった、、、とそう考えた方が合理的に思えたのです。

自分は肉体ではない、、エネルギー体と思った方がよく、意識体と思えればなおよい、、、と感じられたのです。

実際に、私の目はエネルギーを得ることで、間違いなく問題を解消しました。視力も変わり、運転免許の視力検査を眼鏡なしで一発合格。毎回そうですが、今年は多少自身がありませんでしたが、すらすらとよく見えて、おそらく1・5はあったと思います。

齢が行ったから目が悪くなったのではなく、エネルギーが不足していたから悪かった、、、という解釈が実は正しいのです。

さらに言えば、目から、実はエネルギーを得ている、、ということもおそらくあると思います。

見る、、、ということはエネルギーワークとしてもとらえることができるはずです。

見るという作用です。作用があれば、必ず、反作用が起こります。見るものと見られるものとの間には、微細なエネルギーワークが存在するはずです。

微細な刺激であればあるほどエネルギーは大きくなりますので、私たちは、もしかしたら、見ることを通してかなりたくさんのエネルギーを得ていると思うのです。

しかし、見ることが、段々と形式化し、体験から遠のいて、記号化していく、、、あれは電車、あれはテレビ、あれは道、、という知っているつもりになって、形式的な解釈を行うことで、体験でなくなっていく。

その結果、齢を経るごとに体験値は低くなり、形式的な枠にはめ込む合理的ではあるが、エネルギーワークとは異なる死の世界を広めて行ってしまう。

赤ちゃんや子供は物事をよく見ているから、エネルギーワークとして見ることが存在する。

大人になるに従い、慣れて、形式化し、記号化して、エネルギーワークが少なくなっていく。

それは見ることから得るエネルギーの消失を意味し、段々と見えなくなっていく。視力は衰え、ハッキリしなくなる。

老人になったから目が悪くなるのではなく、本当は反対で、目が悪くなったから老人になっていくのかもしれない。

眼から入るエネルギーについて考えたが、同じことは足にも手にも内臓にも言えるのだ。

肉体が衰えるのではなく、エネルギーを得る道を形骸化し、記号化した結果として、私たちは年を取っていくのではないか。

その中で、目は特に重要な気がします。目から、見ることから、私たちは、きっとエネルギーを得ているのです。

しかし、よく見ることが、、、真剣に見ることが、、、無心に見ることが段々と減っていき、、、、目が段々と悪くなる。

眼が悪くなれば、エネルギーが入りにくくなる、、、そして老いてゆく私たち、、、

目をかける、、、目をそむける、、、そんなことからも、生きる姿勢を反省する必要があるような気がします。


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